僕の育ってきた環境では、幸いにも戦争の話を聞く機会が多かったと思います。戦争中の実体験を祖父母や教諭から聞いてきました。平和であることは全ての基本だと思っています。
平和委員会の活動とは関係ないのですが、僕はおととし、念願であったポーランドへ行きアウシュビッツ強制収容所を見学しました。アウシュビッツはヒトラー・ドイツの時代にユダヤ人など敵とされた人々の大虐殺が行われた場所で、記憶を消さないために負の遺産として保管、公開されています。言葉では表しがたいのですがとても消し去りがたい、遺すべき場所でした。日本へ帰ると、アウシュビッツへ行った感想を寄稿してほしいと大阪平和委員会の方からお願いされ、そのまま平和委員会の仲間として迎えられることになったのです。
さて、そのポーランド訪問時に、僕はできるだけ多くの現地人と話をしたいと思い、いろんな人と会話をするよう試みました。覚えたてのつたないポーランド語でしたが親切に話をしてくれ、まず日本のイメージを聞くと大抵の人が「サムライ、ツナミ、フクシマ(原発事故)、ヒロシマ、ナガサキ」とワードを知っているのです。ある日本語を学んでいるという大学生は「日本は、戦争のとき他国を侵略もした。ヒロシマ・ナガサキで悲惨な被害を受けた。それでも今、世界で目立つ国になったのは素晴らしい。9条も知っている。ナイスだよね」と言われたことが驚きでした。それを聞いてとても嬉しく心強く思い、また知らない発見があるものだと思いました。
テレビをつけると、一方的で視野の狭い情報がますます溢れ、改憲勢力が総選挙の結果多数を占める状態となりました。僕がいる北区平和委員会では今期「若い世代に交代を!」と、局長を任されることになりました。これからは、改憲議論の先手を打つ運動をやらなければならないし、またこれまでのように一方的な形式に囚われず、多角的な視野での情報発信する努力が求められていると思います。それらは次世代の僕らの役目であり、責任を持たなければなりません。
1月9日の第3回理事会で死去などの理由で欠員になっていた3役員の補充がされました。
副理事長 鈴木 久
常任理事 飯田正樹
会計監査 加藤秀雄
鈴木さん、飯田さんが役員になったことで運営委員会と常任理事会の若返り、加藤さん(大教組元書記長)が会計監査になったことで会計監査機能の強化がはかられると大きな期待がよせられています。
副理事長 鈴木久さんの抱負
私は2000年8月10日(20歳)に大阪平和委員会青年学生部を結成し、同時に常任理事になりました。青年学生部の結成当時は半数が学生で、最高時の会員は50人を超えていましたが、就職や結婚など様々な環境変化もあり、日常的なつながりがとりにくく、未収金をかかえるなど、一時は4人にまで減少し、消滅の危機に陥りました。
しかし、結成当時の想いだった「夏だけの平和運動にしたくない。日常的に平和を語る場がほしい」という原点に立ち返り、4人で話し合いの場を持ち、まず、平和委員会の存在を広げようということになり「平和委員会メジャー化計画」や様々な団体とのコラボ企画をし、90人以上の組織となり、2つの職場平和委員会も結成できるまでになりました。
私は現在、日本平和委員会常任理事、青年委員会責任者(組織委員)を兼務しています。ですから、青年、職場、大阪、全国と、様々な平和委員会にかかわっていますので、それぞれで得た経験を活かし、みんなが平和委員会に入ってよかったと思える組織。そして「戦争をしたいと思っている勢力」に真っ向から立ち向かえる平和委員会にしたいと思います。
私の役割は青年会員をたくさん増やし、高齢になりつつある平和委員会を活性化させること、青年学生とベテラン会員の世代を超えた交流(体験や経験の継承)を促進し、次代の担い手として世代交代して行くことだと考えています。どうぞ、よろしくお願いします。
常任理事 飯田正樹さんの抱負
常任理事に就任しまして、嬉しさとともに、大役だと通感しています。 関共平和委員会は、まだ立ち上げたばかりなので、例会・企画の取り組みなどを充実させ会員拡大にも力を入れていきたいです。 他職場の若者からベテランの人まで、色々な人が集まる平和委員会は交流の場にもなっています。今まで繋がりのなかった人とも知りあえて良かったです。多くの方に会員になってもらい大きな組織にしていきたいです。
私はしんぶん赤旗の印刷現場で働いているので、夜勤もあり会議に行けない時もあります。その時は副会長や役員の人が代わりに行ってくれるので安心なので、無理をせずやっていきたいです。会議や企画の中で学んで力をつけていきたいです。よろしくお願いします。
好天の1月20日(日)、この企画には12名(うち青年8人)が参加。まず、終戦の間際、大和海軍航空隊柳本飛行場建設工事の際設けられた飯場と従軍慰安所跡地を訪問、強制連行と従軍慰安婦という歴史の痕跡にふれました。
次に三角縁神獣鏡の出土した黒塚古墳資料館(無料)を見学し古代史のロマンに浸りました。正午前に大和三山の見える畑に到着。皆で枯れ木を集め、火をおこし芋を焼きながら、弁当と会話を楽しみました。待つこと一時間半焼芋がほぼ完成(本当は大きな芋はあと30分焼きたかった)。バターをつけたり塩をかけたりして皆で食べました。
大阪平和委員会企画初参加の川口さんがが青年学生部の会員になってくれました。
お 悔 や み
私と内藤義道さんとの出会いは府会議員をされていた時で込み合った電車の中で見かけ会釈をしたのですが、そのことがよくわからなかったようでした。
定年と同じ時期に平和委員会の再建(平和を守る会の活動・運動があって)されることがきっかけになって、奈良からの転籍で活動をするようになったものでした。八尾平和委員会の役員会でご一緒することがあって内藤さんを良く知るようになったものです。行動と洞察力を重ね合わせ平和委員会の運動で大きな役割を発揮していただきました。ありがとうございました。
八尾平和委員会会長 野村忠憲さん
内藤義道副会長を偲ぶ
内藤義道先生は2000年より大阪平和委員会の副会長2010年より会長代理、同時に、大阪原水協の副理事長を務められました。
思い出しますのは、2009年、日本平和委員会の定期全国大会が
大阪(箕面市)で開催された時、議長団の一人に選出され奮闘されました。議長団の中では最高齢でした。
次に、2010年、橋下府知事(当時)が普天間基地の「移設」問題で大阪で受け入れてもよいと発言したことに対して大阪平和委員会として、府庁に出向き、抗議と発言撤回、平和な府行政を申し入れた時に同席されました。その席で応対に出た若い当局者に対して、かつて大阪では防衛庁(当時)が能勢町にナイキ(ミサイル)基地の設置を申し入れてきたとき、地元では反対運動があり、大阪府(黒田知事=当時)は申し入れを断った経過を述べられ説得されていたことが印象的でした。
また原水爆禁止世界大会に09年長崎、10年広島、さらに11年静岡で開催された3・1ビキニデーに、大阪平和委員会の代表として参加されました。いずれも平和新聞「大阪版」に報告記事を寄せられています。
いつも背筋をピンと伸ばされ、会議をとても大事にされ、無届欠席や遅刻は皆無で、私たちは襟を正されていましたし、敬服していました。
先生は中学校の社会科の教師(後に教頭)をされていたこともあり、「教え子を再び戦場へ送らない」との信条をいつも胸に秘めておられ、高知県の教師、竹本源治の詩「逝いて還らぬ教え児よ・・・」を引用して発言されていたことを思い出します。平和憲法を守ることをご自身の堅い信条にしておられました。先生には心からの感謝を申し上げると共に、ご冥福を祈りつつ、少しでもそのご遺志を受け継いでがんばりたいと思います。
大阪平和委員会理事長 田口洋二さん
昨年12月15日、16日の両日和泉市の反戦の先達阪口喜一郎さんの呉での活動を訪ねる旅に参加しました。
景観を守った鞆の浦にて
福山市郊外の鞆の浦で風致地区に道路を建設しようとする計画を住民の主張で撤廃させた運動の経緯を学習しました。
市民の多数の結集が勝利を招いたこと、和泉市立病院でも多数の住民が結集することの重要性を学びました。
阪口喜一郎の活動の跡
海軍の基地・工廠があったため米軍から爆撃され往時の市街の様子は全くなく唯一明神湯がその場所にあっただけでした。「聳ゆるマスト」(小栗勉著)に書かれている「摩天楼」「田中書店」「野村梅子の下宿」などは、跡地すらなく変貌しており往時を知ることは不可能でした。
大和ミュージアムドックヤード
呉市街は「戦艦大和」一色であり帝国海軍への郷愁に満ちていました。ミュージアムの学芸員の解説は、回顧ではなく、大和の建造技術がいかに継承されたか戦時回顧とは違ったものでした。
しかし、育鵬社の教科書を使自衛隊基地に社会実習を行うという呉市の学校カリキュラムには驚きました。
和泉市の教育方針が呉市のようにならぬため、私たちも要注意。
反動化する世情、それに抗して、民主主義を守り、身体を張って平和を守り主張することの大切さを痛切に感じた旅でした。