核兵器禁止条約」をテコに核兵器廃絶へ《世界大会》
『今月の言葉』
8・12辺野古新基地建設阻止県民大会
府下各地で平和のための戦争展を開催
8月「沖縄連帯行動」
青年3人を含め11人で(8/16)
原水爆禁止世界大会が8月6日広島、7日~9日長崎で開催されました。「核兵器禁止条約」が国連で採択された直後だけに大阪から広島に73名、長崎に302名と多数の代表団が参加。広島大会では岩田幸雄大阪原水協理事長が檀上で「条約は核兵器全面禁止に向けた歴史的な新しい一歩。核抑止力に固執し条約に反対する日本政府を変え条約に参加させる国際的責務をはたすためがんばろう。『ヒバクシャ国際署名』を地域、自治体に持ち込み広げよう」と決意表明しました。
大阪平和委から広島と長崎に多数の会員が参加。以下は3人の手記です。
国民の声を届けた志位さん
《天王寺 佐藤俊子》
広島大会で初めて志位さんの生の声を聞きました。長い日本共産党の道すじに、はげんでこられたお声はとても会場の中にひびいていました。
国連の中でも立派に日本国民の声を届けてくださったものと信じています。ありがとうございました。これからも頑張っていってください。
日赤の仲間の折り鶴手向ける
《天王寺 郷原美保子》
広島赤十字病院の慰霊式典に参列しました。原爆死された146名の職員に大阪日赤の仲間からの折鶴を手向け、8時15分、鎮魂のお祈りをしました。当時、爆風で破壊された建物の間に、赤十字の旗が掲げられた様子は、「廃墟の中のオアシス」のようだったということです。
平和公園には国を越え、宗教の違いを越えて、核兵器廃絶を願う世界中の人々が集まり、大勢の市民のボランティアがいて、この日を盛り上げようという強い思いが感じられました。今回は駆け足での見学でしたが、また必ず足を運びたいと深く心に刻んだ一日でした。
歴史的瞬間を生きる
《山本 樹 事務局員・学生》
「核兵器禁止条約」採択直後の原水爆禁止世界大会だけに長崎大会はいつも以上に盛り上がった大会となりました。
市民社会代表や各国の政府代表、国連軍縮問題担当上級代表の中満泉さんなどが「被爆者をはじめとする市民運動の長年の努力によって核兵器禁止条約が採択されたのは歴史的な前進、ここから全面廃絶に向け更に力を尽くそう」と訴え、被爆者の方が「核兵器禁止条約が採択された時、ようやくこの時が訪れたと感無量だった。これからも力の限り、核兵器廃絶を訴え続ける」と決意を述べられ、自分が歴史的な瞬間を生きているのだと感じました。
分科会は被爆者の話を全国の青年と一緒に聞く「青年の広場」に初めて参加しました。
僕が配属されたグループは爆心地から10㎞以上離れたラジオゾンデ(B29が原爆と一緒に投下した観測気球)落下地点そばの川内町集会場を訪問し、爆心地から6・7㎞~12㎞以内の「被爆未指定地域」で被爆したために被爆手帳よりも補償が大幅に制限された被爆体験者証が交付された被爆会長者の方から話を聞きました。強引なこじつけによって被爆者と被爆体験者をむりやりに区別し、補償しようとしない政府の態度は、東日本大震災の避難者への実態を無視した補償問題とも重なって憤りを覚えました。
小中学生の時にも被爆者の話を聞くことはありましたが、平和の意味や人権感覚を身につけて聞く被爆者の話は昔聞いた時とは捉え方が違っているように感じました。また、当初、川内町集会場で3人の被爆者の方から話を聞くことになっていたのですが、そのうち2人が体調不良のため来られないことを集会場へ向かうバスの中で伝えられていたこともあり、「私たちが被爆者から直接話を聞くことができる最後の世代である」と今まで言われ続けた言葉の意味について深く理解させられました。
帰りのバスのなかで平和祈念式典に参加していた方から安倍首相が演説のなかで核兵器禁止条約について一言も言及しなかったことを聞きました。家から帰ってテレビをつけると、首相への要望書提出の際にも被爆者の方が「あなたはどこの国の総理なのですか」と怒りをあらわにしていました。唯一の被爆国である日本の首相が、本来核兵器廃絶を世界に向けて強く訴えるべき立場にもかかわらず、「条約には批准しない」と表明するということは、被爆者にとってどれほど恥ずかしく、悔しく、苦しく、情けないことでしょうか。
開会総会の主催者挨拶で安斎育郎さんは「私達は強くもなく、完璧でもない。しかし、微力だが無力でない。0に何を掛けても0だが、1に1億掛ければ1億となる。微力な一人ひとりの行動が世界を変えていく」と述べられました。
微力な力が集まって世界を変えて行くことができる時代に被爆者から直接話を聞いた最後の世代の一人として「核兵器のない世界」の実現に向け、力を尽くすことを決意する世界大会でした。
現代日本の政治用語は、婉曲法が幅を利かせる社会である。兵器を「防衛総備品」と言い、武器輸出は「防衛装備移転」という。国民をデータ管理し利活用するための番号をマイナンバーと言い、海外での武力行使を「積極的平和主義」という。
(『「ポスト真実」の時代』津田大介・日比嘉高、祥伝社)
会長・弁護士 西 晃
午後2時開始。炎天下の中、翁長知事を支え辺野古に新基地を造らせない8・12県民大会に、大阪平和委員会を代表して参加しました。参加者総数4万5千人で大成功しました。私が今後の辺野古新基地建設阻止闘争勝利のために不可欠だと思う点を中心に報告します。
地元首長を支える重要性
― 名護市長選勝利
今回一番実感をしたこと、それは日本国憲法の地方自治(憲法第8章)の素晴らしさです。一つは名護市長稲嶺進さんのこと。
基地建設の地元名護市の稲嶺市長が建設絶対阻止で頑張っている以上、工事はその主要な部分で絶対に進展しません。土砂の搬入一つまともにはできません。地元自治体の協力なしに工事は絶対完成しない、地方自治はそういう仕組みになっているのです。日本国憲法が地方自治を制度として保障し、民意を生かしているからです。
だから私たちは、何としてでも、来年2月の名護市長選に勝たなければならないのです。裏を返せば、国はどんな手を使ってでも、首長を取りに来るでしょう。平和を求める理性と邪悪な利権欲の真正面からの全面的な闘いです。まさに総力戦。勝たなければなりません。
翁長知事の辺野古埋立て承認『撤回』に向けて
― 支援の輪が必須!
今一つはもちろん翁長沖縄県知事です。翁長さんの挨拶でビンビンと伝わってきたこと。それは、翁長さんは確実に沖縄人民の民族としての「不屈」の歴史的大闘争をはっきり意識していること。琉球の苦悩の歴史を踏まえ、誇りを賭けて闘っている姿がそこにありました。
翁長知事自身も明言した通り、近い将来、仲井眞前知事のなした大浦湾公有水面埋立て承認の「撤回」は必ずあります。「撤回」は知事の公権力の行使として即座に効力を発揮し、その段階で工事はストップします。
もちろん国も黙ってはいません。総力をあげて翁長知事を、オール沖縄を法廷の内外で総攻撃してくるでしょう。私は法律家として、翁長知事が今、どんな条件が整うのをじっと待っているのか?注意深く知事の挨拶を聞いていました。裁判所ですら国・権力の一環。そんな状況は百も承知で、それでも闘いうる方策を日々検討していることが本当によくわかりました。私たちにとって裏切りでしかなかった仲井眞前知事の埋立て「承認」・・・そこに至る経緯・根拠・前提条件・付帯事項・・・全てを慎重かつ全面的に検討しているようです。
ここでも最大のポイントになるキーワードは、首長としての知事の持つ判断権・裁量権です。
その首長の権限行使を最後の最後のところで支える「源泉」は県民の支持、国民・市民の支持なのです。支援の大きな輪・・・これこそが最も大切なことです。
私たちは絶対に諦めない
― 辺野古新基地阻止
大会は午後3時半、「県民大会宣言」とオスプレイ墜落事故に対する抗議を含む「県民大会特別決議」を採択。
「私たちは絶対に諦めない」との強い決意を全員で確認し、無事終了しました。本当に暑い・熱い思いが交錯する、そんな一日でした。
◇天王寺戦争展◇
天王寺・平和のための戦争展が7月28、29日の2日間にわたり市立社会福祉センターを会場に開催されました。
日中戦争で負傷した瀧本二三男さん(故人)の手紙などの遺品や原爆パネルが展示されるとともに、平和漫才、新婦人グループによる「平和の詩」朗読、森田敏彦さんによる瀧本さんの手紙の解読、加藤嘉信さんによる戦争体験語り、「はだしのゲン」「いのちの森、高江」の上映など盛りだくさんの内容……。29日午前「ひとつの花」「ちいちゃんのかげおくり」が上映され、学童の子どもたちが見入りました。
◇東大阪戦争展◇
東大阪戦争展が29日、30日開催されました。会館を1階から3階まで借りきって実施されました。3階ホールでは国内で、戦地で実際に使われていた貴重な資料がところせましと展示され、ホールの隅っこには広島と長崎に落とされた原爆の実物大の模型が展示され、すいとんの試食コーナ―、映画「ザ・思いやり」上映もありました。平和委員会、新婦人、医療生協、府高教など多彩な戦争展でした。
青年3人を含め11人で
大阪平和委員会は、8月16日昼、近鉄上本町駅頭で沖縄県辺野古の米軍新基地建設工事をやめさせようと月例宣伝行動を実施しました。
一人の若い女性は署名板を持つ会員のところに足を運び「安倍政権は沖縄にばかり基地負担を押し付けて…」とこころよく「沖縄県民の民意尊重と、基地の押し付け撤回を求める全国統一署名」にサインしてくれました。